10/02/2017

Figure Drawing #64




 先日約5ヶ月ぶりにクロッキーを描きに行ってきた。久し振りだったので、線の取り方は雑だったけれど、久し振りのわりに、落ち着いた気持ちで形を見て、描くことができたように思う。

9/19/2017

美術部第20回: 色と自画像

もう前々回の話になるが、マルカフェ美術部で、色を使って自画像を描こうということで、色について簡単にレクチャーさせてもらった。こうすればよかった、あれを言い忘れたなんてものが、レクチャーが終わった後には毎度たくさん出てくるのだけれど、今回も例に漏れず、あーでもない、こうでもないと、騒がしい頭を抱えてしばらく過ごす事になった。その中でも、気になっていることのひとつに、色の相対性というものがある。

色を使って絵を描く上で(というか、光を表現する上で、というべきかもしれない)とても大事な要素の一つであると思っているのだけど、要するに、人の目は必ず相対的に色を見ているはずなので、何に対して青いか、とか、赤いかということを、認識する必要があるという事だ。例えば、人の顔だと、頬や耳や鼻先が赤味がかっていることが多いが、その部分の色だけを抽出してみれば、赤というほど強い色でもなく、光によっては朱色っぽいグレーということもある。その関係性が正しく成り立っていれば、実際の色彩とかけ離れていても、目はリアリスティックであると認識することもできる。明るさを表現するために、影に工夫したりするのも、この相対性があるからだ。補色を使って立体感を表現するのは、実際の色の仕組みを利用しているということもあるが、相対的に目が立体だと認識しやすいように分かりやすい方へ導いているという側面もある。また、だから、と言っていのかわからないけれど、写実的に色で表現する時、真っ黒や真っ白はそのままでは滅多に使わない。何かに対して黒かったり白かったり見えるだけで、実際には黄色味がかっていたり、青味ががっていたりするからだ。

と、ここまで書いてみて、やっぱり文章じゃ分かりにくいなと思った。今度機会があったら、色の講座第2回をやらせてもらおう。

8/03/2017

ツクル





我が家に新しい家族が出来たというニュースは、そろそろ風の便りで届いた頃だろうか。
2017年5月4日,ちょうど1年前に亡くなった彼の曾おばあちゃんの誕生日の前夜に(役所の関係で記録上の誕生日は別の日になっているけれど)2857gで生まれてきた。

名前は 造(つくる)。

芸術に関わらず何かをつくる喜びや楽しさに触れて欲しいという願いから付けられた。
まだ生後3ヶ月、まだまだ何もわからない。無邪気に日々成長してくれている。あっという間という気もするし、いろいろあったので長かったという感覚もある。2ヶ月近く入院し、そのあと病院に近い妻の実家に1ヶ月近く居たため(その間もほぼ毎日通っていたので顔は合わせていたが)我が家に来たのはほんの1週間前。本当の生活はまだ始まったばかり。

ここらでちょっとつくる君の身体のことを記録も兼ねて紹介したい。

つくる君はダウン症だ。その関係もあって生まれながらに心臓が悪く、生後1週間ですでに1回目の開胸手術をしている。

1回目の手術は時間稼ぎの要素が強く、今後少なくとも1回、もしくは2回の根治のための手術が必要である。簡単に言うと、心臓の右と左を分ける壁が不完全なため、本来左心室を出て全身を回ったあと、右心室を経て肺で酸素を供給されて戻ってくるはずの血液が、左心室に漏れて再び全身に行ってしまう。結果、血液中の酸素濃度が低くなり、慢性的なチアノーゼになる。この壁に小さな穴や欠損がある赤ちゃんは実はとても多く、心臓の話をするとかなりの高確率で誰かしら周りにもいたという話が返ってくる。多くの場合は成長とともに塞がってくれることが多いので手術までは必要ないのだけれど、つくる君の場合は完全型で、しかも他にもいくつかの合併症があるため、手術は避けられない。もっともシンプルな処置はこの壁を修復する二心室修復と呼ばれる手術なのだけれど、つくる君は左心室が右に比べて少し小さいため、一心室修復という治療法(フォンタンとグレンという2回の手術)が必要かどうかの瀬戸際にいる。

こう書いてしまうと、少し重く聞こえてしまうかもしれないが、いや、確かに簡単なことではないし、実際大変なのだが、この手術は割と確立されており、難易度は高いが失敗率は比較的低い。そして、成功すればあまり制限なく生活できるようになる。今は鼻に酸素チューブを付けているので、外出時間が制限されていたり、鼻がつまりやすかったりはあるが、基本的には本人は元気そうにしているので、重く捉え過ぎずに希望をもって日々の生活を送れれば、と思っている。というよりも、頭の中で勝手に作り出してしまう未来の不安に飲み込まれてしまわないようにするには、現実に目を向け続けるしかない、と言った方が正確かもしれない。とにかく早く、といっても次の手術に耐えられる大きさになるまで数ヶ月から1年2年と待たなくてはならないのだけど、とにかく早く、全ての手術が無事終わって欲しいと切実に願う。

そして、ダウン症。これはもう不確定の要素が多すぎて心配しだしたらキリが無いし、かと言って変にポジティブに捉えようとするのも何か違う。3月に心臓病のことがわかり、そして、心疾患の4割がダウン症だときいてから、実際に生まれて検査結果が出るまで、色々考えては落ち込み、思い悩んだ。障害というただのイメージに怯え、思い描いてきた明るい未来の崩壊を嘆き、先の見えない世界にうろたえた。健全な人達を羨みもした。未だにダウン症についても、障害児を育てるという事も、正直よくわかっていないのだと思う。しかし、我が子を愛おしく思う気持ちに支えられて、彼と現実の世界で向き合っていく中で、少しずつだけれその現実を消化し始めることが出来ているような気もする。新しい現実に合わせて、新しい未来を見据えることも出来るようになった。わからない事だらけだけれど、それはきっとどんな立場の人も、根本的には変わらないはずで、それも一つの真実として、受け入れるしかないのだ。

なるべく開かれた人間関係の中にいたいと思うので、少しずつだけれど、こうして人にも病気のことを共有したいと思い文章に書いている。必要以上に同情されたり、また逆にポジティブなイメージで元気付けられる事を怖がってもいたが、対応の仕方は人それぞれであるはずだし、もしかすると、自分のその人に対する思いがただ返ってきて来ているだけなのかもしれない。少しでも自分の正確な気持ちを汲んで共鳴してもらえたら、やはりそれが一番嬉しいけれど。





6/26/2017

美術部第18回:たべもの


第18回目のマルカフェ美術部は再び食べ物をテーマに。今回は調理前と調理後、食事中と段階的に描きました。

近頃はなかなか私生活に余裕がなく、変な闇の力を出してしまわないかと心配したけれど、描き始めてみたら不思議と心が澄んでいく感じがあって、あぁ楽しいなぁと、しみじみ噛みしめるように、シンプルに描くことを楽しめた。

こんなことを改めて言うのも変かもしれないけれど、文字通り雨の日も風の日も、長い間絵を描いてきてよかったなぁと、バカみたいに最近思う。そして、これから先何十年といったいどんな絵が出来ていくのかを、想像するとワクワクする。そんなふうに思えることに出会えた自分は本当についてたなと思う。人生も環境もフェアなんかじゃないし、辛いことも悲しいことも起こる。世界中は不平等で満ちている。しかし、その全てを飲み込み、力に変え、前に進むもうとする自分がいる。その中心にはいつも絵を描くという行為がある。絵を描いているのか、絵に描かされているのか。

そして、僕は絵を描くことをとおして、答えのない疑問を熟孝していきたいし、答えのないものを形作っていきたい。目で観察して描いてきたからこそ、目に見えない隠された深みのようなものに美しさを感じるし、見えないものを想像する力を大事にしてほしいと願う。幸せそうに見える人が全く問題なく生きてるはずもないし、辛そうに見える人が辛いばかりでもないのだ。眼に見えるものばかりで判断してないで、想像しろよバカヤロウと、アツく叫びたい時が僕にだってある。とはいえ、妄想しすぎて現実が見えなくなっても困るけれど。

そんなことを思いながら、ししゃもの頭にかじりつき、腹から出てきた命のカケラたちに想いを馳せる。

5/22/2017

Figure Drawing #63




四谷クロッキー会。へとへとだったけれど、こんな時こそこれまで培ってきたDiscipline(規律?)が、規則正しい生活が、現実的な行動が、自分を支えてくれるはずだと思って頑張って行ってきた。ふと気がつくと、心はふわっと何処かへ行ってしまう。さらにくたくたになったけれど、お酒の匂いの漂う帰りの電車を降りる頃には、少し清々しい気持ちになってた。


5/20/2017

美術部16回:線



先月のMalucafe 美術部では「線」についてやりました。


単純に線といっても色々ある。わかりやすい輪郭線、シワなどのディテールの線もあれば、陰影の境目の線もあるし、線の集合で影を表現することもできる。上の1枚目の絵もある意味では線だけで描かれている。



まずは、目で見たものを手の動きに変換して線が引かれていく感覚を身体で感じてもらうため、Blind Contour というエクササイズをしてもらった(2枚目の絵)。二人一組になって、目は完全に描く対象(この場合相手の顔)だけをみて、紙を一切見ずに描く。まるで相手の顔の上を鉛筆でなぞるように、目で対象物に見える線を追いながら、それに合わせて、手に動く方向や強弱の指示を伝達していくわけだ。力の入れ具合で、太くなったり、細くなったり、濃くなったり、薄くなったり、画材によっていろいろなことが出来る。それを目で見ているものに合わせて変えていく。そしてそれを体で感じる。

これは、やってみるとすぐにわかるけれど、とても難しい。そして、不思議ととても楽しい。身体的なエクササイズだからか、上手く描ける訳がないので上手く描こうという責任から解放されるのか、ややこしいことぬきに線を引く感覚と見ることを楽しめる。

ここに絵を描く楽しさの原点があると思う。


今絵を描くのが楽しいと思っている人、もしくは、楽しいことばかりでもないけれど、仕事として絵を描いていたり、とにかく描くということの近くにいる人は、おそらく幼少期のどこかの時点で、手を動かし、楽しいと感じる経験をどこかで体験してるはずだと思う。子供の頃、何かを見て、好奇心が動き、描きたいという欲に応じて体が動く感覚を覚えているだろうか。


人の頭は知らず知らずのうちにいくつものタスクをこなしている。何かを見ながら絵を描くとき、常に二つの対象を見ている。描く対象と描かれるもの。自分の描いている絵をみて、失望したり、フラストレイトしたりするし、見ている対象をみて、そこに魅力を感じずに楽しくないこともあるかもしれない。どちらを見て、どちらに対して、どのように感じて、どのように体を動かそうとしているのか。そんな行動の一つ一つを紐解いていって無意識と意識の動きを再確認していけば、自分が改善するべきことも見えてくるんじゃないかと思う。


これを踏まえて、次に実際に描くときは、今までに取り入れた知識を組み合わせる(3枚目の絵)。はじめに構図を決めたり、単純な図形として大まかな形をとったり、見る対象の質量のようなものをガイドラインとしてなるべく大きく捉えて記していく。バランスやプロポーションなど、正確さを追求するのはこの時。この時に、細部は置いておいて、全体像をしっかりとみて、直せるところはしっかり直す。あとはその骨組みの中に、細部をよく見ながら気づいたことを線を使って記していく。線にその人の個性やその時の心の状態が出ると思うので、線を描くときに自由でいられるように知識や技術でサポートするようにすればいい。


4/24/2017

Figure Drawing #62




4ヶ月ぶりのクロッキー。今まで行っていた会が開催しなくなったりで、新しいところに。ずっと行きたくて、でもタイミングが合わずだったのだけど、先日やっと行けた。四谷3丁目にあるひっそりとしたバーで、わりとリッラクスした雰囲気の中、でもしっかりと描くことができた。

動き続けるムービングポーズは、描きたいのにどんどん変わっていってしまうことについていけず、なかなか形あるものに落とし込めなかったのだけれど、今回隣の人のやりかたをみたりしているうちに、あーそうかと、思うことがあって、すこしだけコツをつかめた。(2枚目がムービング)。

今までは見えたものを忠実に描かなければと思いすぎていたのだと思う。見えたポーズを一生懸命記憶してなるべく早く再現しようと頑張っていた。しかし、当たり前の事ながら記憶はすぐに消えていき、新しいポーズによって上書きされていってしまう。そこで、今回印象に残ったポーズを描き始めのきっかけにだけ使い、あとは雰囲気を感じながら、想像で描き進め、手が止まったら、動きをみてインスピレーションをもらって、という具合に結構想像を中心に、ある意味適当に描いたらいつもより形になった。

これが正解なのかどうかはよくわからない。でも、いつも戸惑いと、もどかしさと、無駄に消費される紙ばかりが残っていたムービングポーズを、楽しんで描くことができたというのは、とても大きな収穫な気がする。

4/15/2017

じゃず


最近はスケッチはもっぱらInstagramで、告知はfacebook。このブログは文章を書きたい時用に特化させようと思っているのだけど、文章を書くのはなにぶん時間がかかるので、アップする頻度がぐんとおちてしまった。それでも月に一度くらいはちょこちょこっと何かしら書きたいと思っているのだけれども、もうそろそろ前回のPostから1ヶ月。あいかわらず日頃から頭の中はいろいろなことでいっぱいなのだけどね。いざ文章で書こうと思っても全然まとまりません。ありがたいことに仕事は順調だし、生活も安定してる。欲をいえばもうちょっと何もしない時間があるといいかなと思うけれど、やりたいと思うものごとはよく重なる。限られた時間の中で、自分のやりたいことが自分自身を取り合って引っ張りあっている。時間は限られている?物理的には一方方向に皆平等に均一に進んでいるようにしか、少なくとも人間には感じられないし、表現することができない。実際は感情や精神によって無限の方向性や密度をもって存在しているようにも思うけれど、それについてはまたいつかじっくり書いてみたい。兎にも角にも時間はうまく味方につけておきたい。


3/18/2017

オモイ

気がつけば2月はあっという間に終わり、3月も後半戦。仕事が忙しくなったり、風邪をひいたり、あんなことやこんなこともあって(詳細割愛)、とにかくいろんなことにバタバタしていたら、時間ばかりが過ぎて、少し前に思ったり感じたりしたあれやこれやがもう全然思い出せない。時間に追われていると、余計なことを考えないのである意味楽な部分もあったりするのだけれど、ちゃんとものごとを感じられる余裕がないと、自分の生きてきた軌跡のようなものが、跡形も無くなってしまうようで少し焦る。どちらにしても、いずれは自分の軌跡なんて跡形も無くなってしまうのに変わりはないはずなのだけど、しかしそれでも多少はもがきたい。

仕事は楽しい。それ自体も昔に比べたら格段に楽しくなった。たとえつらい仕事が続いても睡眠と食事さえ満足に取れていればやっていけると思えるモチベーションは増える一方だ。むしろ仕事だけで満足してしまうようになることを恐れている。という思いがある以上、仕事だけでは満足できないのだろう、とも言える。

あいかわらず取り留めのない思いであふれている。時間や愛や優越感や劣等感や嫉妬。人間なんてと思ったり、いやいやそれでも人間だってと思ったり。こうやって吐き出していることで自分の存在を残したつもりになりたいわけでもない。ああ、いいものが描きたい。結局のところそれだけなのだ。しかしそのためにはあらゆる全てが必要なのだ。

1/31/2017

美術部第13回: 墨絵とコンストラクション










今回は墨絵の回でした。書道を習っている部長のナカノさんの指導のもと、今回もとても楽しく自由に絵を描かせて頂きました。墨は水彩ともアクリルともまた違った滲み方、乾き方をするようで、その奥深さと難しさに程よく翻弄されたました。墨は一度塗られてしまった箇所は、消すことも重ねることも難しいので、もっと空白を意識した制作が必要だったなと思いました。新しいメディアは脳が開く感じがして気持ちがいい。呆然と手が止まってしまう時間が多かったけれど、楽しかった。写真など詳しくはマルカフェのブログにて。


さて、今回から活動のはじめの30分ほどをもらって簡単なドローイング講座なるものをさせて頂きました。自分のもっている知識を共有することで、自分自身の中にある情報を整頓しつつ再確認し、またこれを機に、他の人の持つ知恵なども少しずつ吸収できたらというのが、個人的な狙いです。

実際の講義の内容も同じくマルカさんの書いた文章がとってもわかりやすく読みやすいのでそちらを参考にしていただくとして、今回説明したConstruction または Structureとも呼ばれる描き方を、学校で学んだ時の絵が写真として記録されていたので、そちらを公開します。対象を面で捉えて、シンプルな立体的図形として絵に落とし込んでいくという手法です。下がGestureと呼ばれるもので、30秒ぐらいの短い時間に、対象のエネルギーの流れを読むというような見方を訓練するための手法。どちらも、なんともう15年も前の絵。なつかしい。

これからこのような形で自分のもってる知識を少しずつ共有していきたいと思ってるわけですが、そしてこれは個人的にとても大切だと思っていることなのですが、これらの知識は所詮知識なので、これによって硬くなりすぎないといいなと思います。スポーツ選手がフォームを改善しようとして硬くなってしまうことがあるように、意識的に知識に合わせて体を動かそうとすると自然と体は硬くなってしまいます。ダンサーが繰り返し繰り返し練習をして、最終的には無意識から導き出される自然な動きに、観る人が心を動かされるように、絵もこれらの知識はあくまでガイドの一つで、これらを経験を伴った知恵として体になじませ、いざ自由に好きなように描くという時に、潜在的な心を開く助けにならなければ意味がないなと思うわけです。別にみんなに同じように絵を描いて欲しいわけでもないし。まぁ要するに絵を楽しく描く助けになればいいんですけれど。